1月 292012
 

人を見送った後は、いつも空虚な、取り残された、ジブンが行けないどこかに、ここよりもっと大事な何かが
消えていくようなそんな気持ちになる。

友を見送ることが多かったニューヨークでの生活では、見送りの後の空虚感に襲われるのは、それは、いつも空港だった。
空港のなかでは、JFKが一番多いけれど、それが、New Arkであっても、そこまで一緒にタクシーで行った後、
一人でタクシーを拾ってNew York City まで戻ってくる道のりはとても長く感じた。
空港へと向かっている時は、もっとずっと遠くに空港が移動してしまえばいいのに、と思う程、景色は
どんどん刻々と、空港のご近所さんへと変化していくのに。

空港のターミナルで視界から消える人の後ろ姿を思い出しながら、タクシーの中から見る景色は、さっき来た道を
Rewind した、逆回しであるはずなのに、「時間が戻る」というというよりは、
新たに始まる日常を、自分、たった一人になって受け止めていかなくちゃ、という決意を不自然なぐらい、
わざとらしく感じながら、mind settingして、まるで新しいニューヨークという街を創っているような気になっていた。

タクシーがから、一人ぼっちになって、余計に悲しいのではないか、と思って、
試しに、JFKでローカルバスに乗って、とんでもなく迂回をしてManhattanまで帰ってみたこともあった。

全く馴染みのない町並みを通って、普段、巡り会わない人を拾ってくバスは、非常に危険な区域を通っていた。
まるで、ラビリンスに迷い込んだような、心許なく、それはそれは不安がいっぱいで
寂しいとか悲しいとかそんなことを感じている暇がなかった。
今このバスで、知らない人ばかりと乗り合わせて、「一人ぼっちになっているジブン」という状況の責任
をAir Port から旅発った友人のせいにもして、私は心から怒っていた。
悲しいとか寂しいとかより「怒り」は妙に楽で、旅立った友に、親近感を感じる種類のものだった。
別れを惜しんだ友を、懐かしむより怒っているジブンに辟易した。
そして、別れが悲しくなくなる新しい方法を発明した気にもなった。

しかし、
12月の見送りは今までのどれともと少し違った。
別れた時に、新しい友人と出会えたこと、そして、そこまで見送れたことを喜んでいた。
新しい出会いは、新しい気持ちとの出会い、でもある、と、書いた所で、過去の記憶に
左右されない余地が私の中にあることが嬉しい。

そして、一人取り残されたと感じなかったのは、
新しい友人が、私の少し悲しくて少し寂しい気持ちを理解していると私自身が感じているからだ。

友人が私の寂しさを請け負ってくれたことで、私の中に残る寂しさはその質が変わり量も減る。
お化け屋敷で、一緒にいる友達が怖がると全然怖くなくなる状況と似ている。
それから、きっと、嬉しかったからだ。
「嬉しい」があると「寂しい」が気持ちを占有できない。

友人は、私が東京駅まで見送りに行けたことをどんなに喜んでいるか、わかっているだろうか。
まあ、あんまり書かずに、新しい気分を感じることに時間を使いましょうか。
では、アミーゴ! 元気で!

Momoe Melon

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