[アレクセイと泉] 5月15日日曜日 午後3時 トゥモローランド本社 地下
監督:本橋成一
音楽:坂本龍一
チェルノブイリから北東へ180km。高濃度の放射線量が測定されたベラルーシのブジシチェ村。政府から移住勧告が出され、地図から村の名前は消えた。しかし、そこにはいまだ、11人の老人と33才のアレクセイが住んでいる。
彼らの生活では、働くことが食べること。
彼らは毎日泉から水をくむ。
その村のどこもかしこも放射線の濃度が高いのに、その泉から放射能反応はなかった。
地中からわき出る水は過去から現代へとわき出た水。
村人は女も男も水を汲む。
二つのバケツで水を汲むと30kgになる。
水をくめなくなるということが生きていけないということ。
放射能があるなしではなかった。
トゥモローランド本社での上映。
イラストレーター・那須慶子さんからお誘いをいただき観に行った。
これで3度目のお誘い。1度目も2度目も土壇場で行けなくなった。
3度目の正直だった。
会場前に大きく高いスクリーンが設置され、前の方はパパイプいすが置かれていた。人数が予定より増えているのだろう。
映画上映に先立ち、上映の企画の発起人の一人である女優の木内みどりさんが
アナウンスをする。白い木綿のシャツに、黒いタイトのスカート。タイトスカートから黒いタイツで包まれたスリムな足がショートブーツまで真っすぐに伸びている。美しい。焦げ茶の小さなショルダーを腰前にかけている。
素敵だ。
映画が始まる前から受け付けや会場の中で忙しそうに歩き回っていた。
久しぶりに耳にする声は懐かしく耳に優しい。私は木内さんのナレーションがかかる番組がすきだった。美しさは声で決まる。
映画が始まる。
本橋成一監督は写真家だということもあるのかどの画面もまるで一つの写真のようにフレーミングが美しい。
そして、その視線はベラルーシの今は地図から消えた村に溶け込んでいた。
視線がその場所に溶け込むように映画を撮る監督が一体この世界にどれだけいることだろう?
誰しもが自分の暮らす環境で培われた視線で、新しく訪れた場所を切り取ってしまう。または、見たい所だけ、写したいところだけを捉えてしまう、そんな制約から自由になれていない気にさせられる画像を目にすることが多い。
それは私の偏見かもしれないけれど。そういう気がする。
「アレクセイと泉」はドキュメンタリーだから、その村を写しだしていてもそれは不思議でもなんでもないことかもしれないけれど、その映像はドキュメンタリーというには美しくまるでフィクションと呼ばれる映画のように、物語を感じる映像の連続だった。
しかし、その物語は、監督が村で生きる人たちに押しつけたものではなく、その村で生きる人たちの物語を掬い取って、風が空気中を伝わるような軽やかさで、見た者の心をなでる。
チェルノブイリの事故の後、高い放射線量が測定され、退避勧告が出された村だとは思えない。確かに放射線は目に見えないのだ。
放射線が見えないのではなく、もしかしたら、この泉からわき出る水が村の全てを浄化しているのではないかという錯覚に陥る。
しかし、そんなことはなく映画の最後に、測定された放射線の濃度が数字として画面に現れる。どこもかしこも大変な数値だ。
そして泉の水だけ、 zero という数値。
しかし、目に見えなくとも確かに泉以外にはその生命を危険にさらす物質に汚染されているのだ。汚染という言葉がこれほど似合わない村が汚染されている。
目に見えない放射線に一喜一憂してきた私にとって必要だったのは、
「情報」ではなかった。
私はここで生きていくのだから。この放射線が風で雨で運ばれる場所で。
どこにいても自分の暮らしを大切にすること。楽しく幸せを感じること。
何が正しく、どうするべきか、それを考え続け私は頭を痛めていただけだった。
発表された情報は、安全です、というものも、危険だというものも、相反する情報の両方に裏付けがあり、不確かさは解消のしようがない。
そして、どうなるのか、その将来は目に見えないのだ。
でも、今日、私は高濃度の照射線量の中で暮らす人々を見た。
そして、彼らは彼らの人生を生きていた。
彼らの生活では、働くことが食べること。
彼らは毎日泉から水をくむ。
水をくめなくなるということが生きていけないということ。
放射能があるなしではなかった。
村人はこの村を捨てない。
この泉よりもおいしい水は世界のどこにもないから。
私にとっての泉とはなんだろう。
ここで暮らす私はそれを考えている。