2月 202012
 

正月到来とはしゃいでいたらもう受験シーズン。もはや受験生でもないが、何もかもに明確な答えを求める癖は「受験戦争」を経験した名残りだろうか? 特に個人的な感情であるはずの「愛」の正体についても、明確な答えを常に探している気がする。

『「愛」って何?ーわかりあえない男女の謎を解く』は、『哲学オデュッセイー挑発する21世紀のソクラテス』でポップな哲学者として世界的に注目を浴びたリヒャルト・ダーフィト・プレヒトのベストセラー作家としての二作目にあたる。

今作で、プレヒトは、プラトン以来、哲学において「一つの事故または混濁した悟性を代償にして哀れな結果を招きよせるだけの感情の混乱」と考えられてきた「愛」を自然科学と人文科学の両面から探っている。生物学、進化心理学、動物行動学、脳科学、人類学などを駆使して縦横無尽に愛とは何かを語ってくれるのだろうと期待に胸はふくらむ。しかし、 プレヒトは、男女の性の役割の差は、他人の視線のもとに生じるものであるとして、遺伝子の影響や、石器時代の原始人の行動パターン、進化心理学の主張をバッサリと切り捨てる。「何が男性的で、何が女性的であるかというイメージも想念や解釈にすぎない」と結論づけ、愛という感情も、「愛」として解釈された感情の一つでしかないというのだ。

そして、なんと、男女の愛も、母子関係の「論理的な副産物」に過ぎないと言い切る。多くの動物の親子関係において哺育を行う者が我が子の欲求を感じ取り、その気持ちを理解して、保護する結びつきの気持ちが男女の愛の起源であるらしい。

「男と女」の性差も解釈、「愛」も解釈であるならば、なにをよりどころにすればいいのか?

「愛」と解釈できる感情を持ち、生物学的な「性」を持つ自分とは何なのか?

自己もまた、「解釈」の上に成り立つ虚構なのだった。人間は他者の眼差しの中に自己を映し見、それを解釈して、自己像を決定する。ゆえに、常に好ましい自己像を他者の眼差しの中に発見することを必要としている。

ここに、男と女を浮気へと駆り立てる理由も潜んでいる。浮気は「最善の遺伝子を探すこと」でも、「繁殖行動」でもなく、「新鮮で新しい自分自身の像を求める気持ち」なのだった。

長期的な関係の親密な相手の中に見える自己像よりも、もっとわくわくできる誘惑的で魅力的な自己像を求めてのことなのだ。人間は結びつきと安全だけでなく、新しい刺激も求めているのだ。

愛において、目指すのは理解や保護、結びつき、そして、それらと同程度に興奮にも憧れるのだ。

愛が互いに近づきあうことなら、近づくための隔たりが必要で、だからこそ隔たりが、愛することにおいて必要な不可欠なな要素になるのだ。

「愛し合う者は永続的な共同作業を好んで誓い合うが、一緒にいるとか体験を共にするとかいったことが担保されたからといって、それが保証されるわけでもない」とプレヒトは述べて、「愛の関係を成功させる公式はない」と断言する。

愛したいという気持ちと長期的に愛することができないということの間には大きな溝がある。人間は、「どうやら相手よりも愛のほうを愛しているらしい」。

愛が多くある感覚や感情の一つの「解釈」に過ぎないなら、時代や社会が変わればその「解釈」もおのずと変わってくる。愛を学問するのは無意味だ、ということがよくわかった。

 

Momoe Melon

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