ヒトラーの後継者とされていたゲーリングが、ニュルンベルク刑務所で「この世には悪事が存在すると初めて気づいたような顔をした」時の逸話を始めに、イェール大学心理学部教授のポール・ブルームが本質主義を軸に「喜び」を解明していく。
見る、聞く、味わうという現実の感覚だけでは「好き」や「喜び」の理由はわからない。重要なのは目に見えない、そのものに宿る根源的な本質なのだ。
ゲーリングが「この世に悪事が存在する」と悟ったのは、手に入れたフェルメールの作品が贋作だと知らされた瞬間だった。自己中心的で他人の痛みに残忍なまでに無頓着だった男を、死刑宣告よりも落胆させたのが、偽物を掴まされたという報せだった。絵画自体がどんなに素晴らしい出来でも、フェルメールが描いたものでなければ作品の本質、つまり喜びの源はゼロなのだ。
元来、進化に有利に働いた心のシステムの副産物に過ぎなかった喜びについて、人間特有の芸術、宗教、科学から、動物的側面のある食やセックスまで、ブルームは様々な例をもとに考察していく。
食の喜びでは、カニバリズムが取り上げられる。被食者の本質を取り込むという点で、カニバリズムほど、食にまつわる本質主義を考えるのに適したテーマはない。よく知られている例は、キリストの血と肉を身に受ける聖体拝領だ。聖体拝領をカニバリズムとするべきか否かという神学論争は山ほどされているが「カニバリズムのようであることは確かだ」とブルームは指摘している。ちなみに、キース・リチャーズは、雑誌のインタビューで「これまでに試したコカインの一番の変わり種は、親父だ」と答えている。火葬した骨を粉にして一服やってみたらしい。二〇〇三年、ドイツで殺して食べる相手をインターネットで募集した男の許には二〇〇人近くの応募があった。選ばれた男性は願いが叶って食され、食した男は、合意の上でのカニバリズムだったが有罪判決を受けた。食べられた男は英語が堪能だったらしく、食べた男は、その後、英語が上達したと語っている。
食べられた男はマゾヒストだったのだろうか。ブルームは、「マゾヒズムは苦痛と屈辱ではなく、サスペンスとファンタジーだ」というドゥルーズの主張を引用して、サドマゾヒズムでは苦痛の強度をコントロールできることが必要不可欠で、これが普通の喜びとの決定的な違いだとしている。
食と並んで種の存続に欠かせないセックスも、肉体的感覚だけが喜びのもとではない。相手が誰でもいい訳ではない。二五〇〇年前に書かれた『オデュセイア』から、旧約聖書、シェイクスピアまで、セックスの相手が誰かということがストーリーに大きく関わっている。相手へのこだわりという点に、恋に落ちる理由も垣間見える。「恋とは一人の人と残りすべての人との違いが何から何まで誇張されて見えることだ」とバーナードショーも言うように、肉体の喜びと繁殖だけがセックスの目的ではない。セックスと恋について書かれた章では、それまで進化論的な見地の引用として登場したダーウィンが二九歳の時に書いた結婚のよい点と悪い点のリストが載っている。ダーウィンはリストを書いた数ヶ月後に知性と優しさを兼ね備えた女性を伴侶に選び、結婚している。
冒頭に贋作に落胆したゲーリングの話を配置したことも、ダーウィンの逸話も、心理学者・ブルームの計算なのだろう。ゲーリングやダーウィンという人物に感じる本質が、ブルームの本質主義を基盤にした喜びについての論理展開の本質を保証して、説得力を強めることに成功している。