6月 182012
 

「奇蹟が起きたんや/雨が降ってもいないのに/わたしのあそこがビショビショや」。主人公の少年の父親が酔っ払って歌う「陰部の唄」。いい唄だ。訳者・長山さきのセンスは最高だ。主人公の家族に関西弁風の言葉を話させることで、ろくでなしだが憎めない感が生き生きと伝わってくる。「自伝的小説」ということだから、年金生活者の祖母の家で、毎日倒れるまで大酒を呑む父親と叔父達と暮らす主人公が作者のフェルフルストということになる。最悪の環境にいながら、アル中の家族を誇りに思い、周りの人間、社会の不合理を裸にして笑いへと変換する。事実だけを見れば悲劇だが彼の紡ぎ出すセンテンスは軽快でユーモアに富んでいる。惨めな悲劇は特別に面白い喜劇になる。文学における「負のカード」はいつだって最強の切り札になるのだ。

「気持ち」なんてなければ、「生きる」ことはずっと楽だ。鋭敏であればある程、あらゆる感情を引き受ける羽目に陥る。己の傷つきやすい面倒な心から跳躍できる瞬間があるとすれば、それは創作の瞬間。自分自身に起きた出来事を俯瞰して物語へと変換していく。自分自身を不幸に陥れた他人は、ストーリーテリングに欠かせない、自身の企みを宿した物語の駒。ふりかかった災難は、物語を進める上での大切な要素となる。

「陰部の唄」はいい唄だが、中学時代に、酔っ払って父が歌いだしたら喜べない。子供だった作者が置かれた状況を楽しんでいたかはわからない。しかしフェルフルストが、中学時代に自分で家庭環境を告白し里親のもとで暮らし始めたのは事実だ。物語の中で青少年裁判所からソーシャルワーカーが家族の暮らしを調査しに来る件がある。主人公は「僕の教育にはまったく問題がなかったのに」と言い、裁判所へ知らせた人間を「密告者」と呼ぶ。「密告者」とは、中学時代に、自分で家庭環境を帰る決意をしたフェルフルスト自分自身に違いない。物語後半に登場する「大人になった」主人公は、どこかに家庭を離れた自分自身に罪悪感を持っている。「密告者」が別に存在する物語の中の主人公が、家族を見放した自分に罪悪感を感じているとすれば、実際の彼は一体どれだけ罪の意識を感じたことだろう。

生き続けるために、どんな経験も感情をも祝福し物語を語ることがフェルフルストの生きる道なのだ。

Momoe Melon

 Leave a Reply

(required)

(required)

You may use these HTML tags and attributes: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">